渡部直己「移人称小説論」

渡部直己「移人称小説論――今日の「純粋小説」について」『小説技術論』河出書房新社、2015年

雑誌掲載のバージョンを読んではいたが、再読。

「話者」と「描写」が対になるというのは、なるほどなぁと驚きをもって読んだ。

 

小説技術論

小説技術論

 

 

高木さんのオープニング

からかい上手の高木さん』のオープニング、出合小都美さんの絵コンテ・演出でした。

冒頭の数カットの出合さん度、高い。

この手のポップな簡略化表現のほか、「友人帳」監督あたりからだろうか、実直な背景を組み込むようになったような気もします。

西片と高木さんの関係は、あれ以上深まることも離れていくこともなくて、すでに完成形の飽和常態を見せられているわけだろうが(結婚後を描く話があったことは措くとして)、そういう二人の「調和」(と言ってよいと思うが)が曲がサビに入るあたり、手を引く高木さん(画面左への動性)、手を惹かれる西片(おなじく左への動性)、その動性がぶつかって二つの波紋が交差するショット(画面右上から、高木さん~西片の動性を引き受ける波紋/つづいでそれを受け止める画面左下から右上への波紋)、つづくカットではその動性のラインに沿って麦わら帽子から三角形や鞠のような幾何学模様が伸びて、カメラもそのラインに沿って伸び上がり、とこのあたりの伝達がとても気持ちよく見られる。二人は最後にはロングショットのカメラフレアに収まってお似合いじゃんヒューヒューと、爽やか気分になりました(そして自分の過去をかえりみる……泣く)。

あと、あの眉毛ちゃんの声優さん、「月がきれい」のヒロイン~新「グルグル」のククリの役者さんか。新しいタイプの役ですね(大沢事務所!)。

宇宙よりも遠い場所

オープニング、回転のモチーフが素敵。とくにBメロでの、レンズフレア・レンズの湾曲・ピントの狭さが目立つショットでの長回し。観測船の羅針盤――Cパートに1カットあり――あたりの回転から採っているのかしら。南極の頂点の低い夕日が流れるショットも秀逸。また、ツイッタースマホ・インスタグラム時代らしい高校生たちの簡単なトリック撮影は「ユーリ」エンディングの系譜と言えるかしら。

本編については、Cパート(でいいのかな。特殊ED明け)終わりに登場した南極観測船の途方もない大きさをもっと強調するような構図(たぶん背景の工夫が足りない)にしても良かったのでは。

ボールルーム5巻

竹内友ボールルームへようこそ(第5巻)』(2013)

筋肉痛。

抜けになっていた巻を読む。アニメ版の脚本も上手に取捨選択しているとは思うが、通しで原作を読むといろいろ発見がある(当然か)。

「花岡さんが僕を見てくれている」(Heat 17)。これは「見られる」ことの主題系。

「下手だ/下手くそだ/自分の踊りは話にならない/と肝に命じることだ/自分を下手だと思っているうちはひとは成長する/謙虚な客観性をもってダンスに仕えろ」(同)。

はい。手抜きをしているつもりもないのだが、でも、もっと良くなるだろうという気持ちはあるのに、そのやり方が分からない。

このあとのシルエットのコマ、迫力ある。

本郷さんと千夏がここから登場。この二人が出てきて、リード/フォローの主題にひねりが効いてきてすっごい面白い。

 

 

 

 

 

 

ラブライブサンシャイン第2期第13話

第2期第13話(最終話)。

第12話~13話と良かった。本戦決勝の扱い、閉校の儀式、最後の曲の振り付け回収、「かがやき」の見つけ方。

第1期のころから感じていることだが、酒井監督はライブの演出の付け方(PVパートの演出に物語進行を盛り込むこと)が本当に上手。集大成っぽさ。あと、スクールアイドルというからには、やはり、会場は学校であるべきだろう。(あのすべての振り付け、背景の回収を行ったあと、劇場版はどうするのだろう。)

アクアはミューズに比べて学年別の行動やフォーメーションが目立つように思うが、閉校時の一年生組のやり取りなど、しみじみした。(ずら丸の芝居、良かった。内気な子たちにとっての居場所は大切だす。)

各週終わりの数分に、それっぽいいいセリフをミュージカル調で読む、という謎の方針には感心しないが、ここ二週はとても良いと思う。

芳川泰久『「ボヴァリー夫人」をごく私的に読む』

芳川泰久『「ボヴァリー夫人」をごく私的に読む――自由間接話法とテクスト契約』(せりか書房、2015年)

読了。「ごく私的に」とは、たとえば、著者が新潮文庫版の翻訳作業に当たった直後に書かれたことを指しており、そこでの困難な経験(接続詞 et の役割、セミコロンの使用の特徴、そしてなにより自由間接話法の訳出)をもとに書かれている点を指す。また、言ってしまえば、評論文や学術論文の語法ではなく、「考えた順序」「思いついた順序」をそこまで隠すことなく書かれ、考えの展開の過程を見せてしまっている点も「私的」と形容していいかもしれない。

自由間接話法をめぐる分析と「; et」(セミコロンと接続詞)の分析を一貫したお話につなげ、その分析が「切る」かつ「つなぐ」、「継続的」かつ「点括的」といった観点に、主題論的な細部(「ほこり」と「脈拍」)の読み合わせを経てやがては回収されるという大枠もなかなか読ませるものではある。(さらにそのあいだには、蓮實重彦のボヴァリー論のある章の批評も。)

一点だけ言えば、そういった分析がではいったいなににつながるのか、という点の明示がないのはやや物足りない。いや、それが「私的」ということでもいいのではあるが。

にしても、引用されているフロベールが圧倒的であった。