宇宙よりも遠い場所

宇宙よりも遠い場所』第3話。絵コンテ、いしづかあつこ、北川朋哉。演出、髙田昌豊。

素晴らしい。友人をめぐる同種のショットのコントラストがうまい。

Bパートはじめ、白石結月の幼稚園時代の回想(同い年の子たちから取り残されてしまうカット)では、住む世界が異なることがキャラ絵が置かれるレイヤーの違い(カメラは退いていく。また、フォーカスのあたり具合いも異なる)で表されるが、その構図が4人で南極・北極科学館に到着したカットで反復される。このとき、おなじようにカメラは退くのだが、そうやってひらけた背景には円形の建物がおさまって、4名が共通の消失点をもった遠近法の画面におさまる(ひとつの構図にならぶ)。その構図は、結月がマネージャーたる母親に電話する直後のカットでも反復されて、これが4人が共通のグループ(同じ日の朝、彼女は同級生とのLINEグループから退出されてしまっている)を組んだことの画面上の合図になっている。やがてそのグループ感は、彼女が級友とは撮れなかったみなが一つの画面が収まっている自撮り写真になるだろう。

今週はノイタミナ枠の『恋は雨上がりのように』第2話も良かった。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第1話、第2話。

義手でタイプライターを使用して手紙代筆を営むという、補綴(代理性)の主題が徹底された設定は、わたし個人の専門にとってはきわめて興味深い。(自分の手ではなく、手書きではなく、自分の手紙ではなく、という三重の代理性。)

また、エンディング曲の茅原実里の歌い方は、ときに「ボカロ」と形容されるような、安定した音程でありつつ、その半面「機械的」にも聞こえかねないという歌唱演出にも聞こえなくもない。(思えば、茅原実里は、おなじ京アニ制作アニメで長門有希の声優を務めてもいたのだ。)

と思ったが、そういった、人間/機械、自身の手/代理の手といった主題系が前景化される脚本でもなく、いまいち乗り切れない。

それとはべつで気になっているが、京アニのタイムラプス演出はこれが最初だろうか。また、アニメ制作におけるタイムラプスでは、作画枚数はどうなっているのか。(枚数が膨大に必要になるのか、枚数を圧縮しているように見えるだけの絵を描いているのか。)

 

ダーリン・イン・ザ・フランキス

ダーリン・イン・ザ・フランキス』第1話、見る。

主人公二人が出会う場面で、そのキャラクターデザインで、「君の名前は」とか聞いてはいけない(笑)(小柄な青髪キャラがまたいかにも可愛い。)

まだまだ評価はこれからといったところ。ロボの起動が「パートナー」というシステムに依っているらしいが、そこで固定的な男女を持ち出すのは古臭え(おじさん臭え)とは思う。

エンディング曲の歌い方は、歌唱力のないアイドルっぽくて、好き。

堀辰雄「風立ちぬ」

堀辰雄風立ちぬ」(『風立ちぬ・美しい村』新潮文庫

はじめて読んだ。いくつかのセクションに分かれているが、人称の使用が面白く読めた。冒頭と末尾のセクションのみ、恋人が「お前」の二人称。冒頭では呼びかければ相手がいるが、末尾ではこの呼びかけを受け止める生者はいない――しかし、そういった死者へよ呼びかけこそ、頓呼法らしさであって、末尾のセクションには、ひとり言なのか呼びかけなのか自身でもよく分からない心内文が多い。

 

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

 

 

今村夏子・小川洋子対談

『群像』18年2月号掲載の今村夏子・小川洋子の対談を読む。

書いていることを誰にも言わずに小説を書き続けるってどんな気持ちなんだろう――その結果、「あみ子」で太宰賞・三島賞をとったという連絡を受けて泣いてしまったそうだが。

うっすらうっすら、途方もない孤独を感じるエピソードが多かった。

あと、後半は今村が小川に聞きたいことをひたすらに問いかけていて、いろいろ溜めてきたんだろうなぁと思った。

 

群像 2018年 02 月号 [雑誌]

群像 2018年 02 月号 [雑誌]

 

 

渡部直己「移人称小説論」

渡部直己「移人称小説論――今日の「純粋小説」について」『小説技術論』河出書房新社、2015年

雑誌掲載のバージョンを読んではいたが、再読。

「話者」と「描写」が対になるというのは、なるほどなぁと驚きをもって読んだ。

 

小説技術論

小説技術論