ヴァイオレット・エヴァーガーデン第10話

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第10話「愛する人は ずっと見守っている」

脚本・吉田玲子、絵コンテおよび演出・小川太一、作画監督・丸木宣明。

キャスト アン・マグノリア 諸星すみれ、クラーラ・マグノリア 川澄綾子

 「いい最終回だった」とときに冷笑的に言われるほどの第9話を経て、まだ書くことがあるのかと思っていたが、Cパートが「まだまだ書くべきことがある」と教えてくれる。

一週完結のまとまり具合だけであれば、姫様回がすでにあったわけだが、第10話は、少佐をとおして情動・感情というものを知って、それでもなお自動手記人形として職務をまっとうするとき、ヴァイオレットちゃんがどのようにその情動性を処理するのか、という点を書き足した。彼女も視聴者も、いわば、二周目の自動手記人形のおつかい物語を経験するのであり、すると、一巡目(たとえば姫様、あるいは戯曲の手伝い)には書き得なかった情動性が前景化する――いや、むしろ、抑圧されていたのだから、いわば「後景」に無理やり追いやられていたことを知る。 

茅原実里の歌い方の評判が悪いようだが(わたし個人は、先述のように、ヴァイオレットちゃんを主人公にする物語にふさわしい歌唱スタイルだと思っている)、そのエンディング曲までが2コーラス目に入って(普段の90秒の範囲の外側)、人形めいた歌唱からやや離陸したようにさえ聞こえてくる。

原作小説の広告で女の子がいやだいやだとヴァイオレットを叩いていたカットがあったが(あれは屋内のショットだと記憶しているが)、あの場面のアニメ版を見て、ああ、あのCMで見たお話だったのか……と知るが、アンの腕も情動も受け止めるヴァイオレットちゃんの姿勢にその「後景化」を見てとってもいいと思う。あの場面は、ヴァイオレットちゃんなりの抑圧や我慢の場面であった(この場面での諸星すみれの芝居も良かった)。この場面で、シリーズを通しての演出方針である「情動性は義手に宿る」の原則の通り、左手の揺れが書かれている点にも着目していいはず。(このとき、ヴァイオレットが「どうにもならないもの」の例として自らの義手を挙げていることにも。)

また、小川太一の演出は、時の経過を上手に見せていた。

第一に、Bパート冒頭、7日の滞在であっという間にアンがヴァイオレットに懐いていく場面――「ヴァイオレット」連呼の――での短いカット割り、余白を詰めた音声の挿入。その直後にタイムラプス(この技法の活用がうまいひとが京アニで演出がうまいひとだという判断でいいと思う……)が入るが、ここでは一日いちにちの経過のみが書かれる。(よりスケールの大きなタイムラプスは母を失う場面で用いられる。)

第二に、Bパート末尾、背景を固定して、キャラ絵のみフェイドアウトさせる演出がまた素晴らしい――お屋敷に住み続けるアンにとっては、一つひとつの部屋も庭も変わらないのに、そうした日常の空間から、母親の姿のみ、記憶となって遠のいて消えてしまう。葬儀のカットでのフェイドアウトを経て、母の手紙の朗読が始まるが――もう川澄さんの声だけで泣ける――1通いっつうの手紙が新しいパラグラフを導くかのように、例の背中のショットにおいて、今度は逆に、フェイドアウト/フェイドインでキャラ絵が成長していく。