君の名はの前半

石岡良治・三浦哲哉『オーバー・ザ・シネマ』からパラパラ読んで『君の名は。』の前半が見ていて辛かったという話を土居伸彰さんがされていて、そういうもんかーと思った。

(そして、『ゆゆ式』で博論!)

料理するとき、テレビをつけてしまう習慣をいつの間にか身につけてしまったけれど、君の名は前半の当たり障りの無さは背景音楽にぴったりだと思っていた。

ちなみに今夜は、ポークソテーにんじんマリネ添え、かぼちゃの黒ごま和え、冷奴。おばんざい屋で食ってうまかったので、レモン入りの南蛮漬けも作ろうと思っていたが、疲れたので明日。

 

オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議

オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議

 

 

国立新美術館

国立新美術館印象派展見た。六本木の桜、きれい。

ファンタン=ラトゥールの肖像画は表情が面白い(影が入って、視線はしっかりしているのか、瞑想・没入めいているのか読み取りにくい)。

カナレットの風景(都市)画は、画面のあらゆるところにフォーカスが当たっており、この展示の大部分とは異質。モダニズム批評っぽい用語を使えば、一瞬のうちに画面全体に視線を向けたような――それと対比して、印象派の絵画では、その都度その都度焦点の結ばれる箇所が限定される視線の動き(それにともなう時間感覚)のようなものを感じる――張り詰めた感覚があった。

ドガの《控え室の踊り子たち》は黒色の輪郭線のようなものが見えて、印象派という括りではやや異質(だが、調べて見ると、おなじモチーフでやはり黒の輪郭線を用いているみたい)。マティスの踊り子をふと思い起こしたりした。

セザンヌの《庭師ヴァリエ》には感動した。色彩(青や緑系統)は山を扱う作品のそれを思わせる。お客さんもよく集まっていた。

ピエール・ボナールは名前さえ知らなかったが、《室内》のあれは鏡に映った様子なのかな、画中画のように枠が切り取られていたが、枠の内外の筆致の違いが面白かった。壁を塗っているのか、枠の外は言ってみればモダニズムをやや先取りするかのような平面的な厚いタッチで、視線をどこにも誘導しない。そこを突き抜けられるという幻想も産まない(ゆえに平面的)。それゆえ自然と画中画のほう(言ってみればモダニズム以前の)へと視線が向かってしまうように感じた。

これだす。

theartstack.com

宇宙よりも遠い場所 #12

宇宙よりも遠い場所』第12話「宇宙よりも遠い場所

絵コンテ いしづかあつこ・清水健一、 演出 北川朋哉

今期ベスト候補。

くしゃくしゃの一万円札を数えるAパート末尾、Bパート終わりのメールの蓄積、積み重ねの見せ方が上手。母からの返事を待つ1000通以上のメールに託した期待――もちろん諦めの寸前の薄い期待でしかない――を、みずから立ち上げた(友人の助けでもって手にした)パソコン受信で断念させて、分かってはいたがほんとうに亡くなっていることを自身に突きつける場面なぞ、素晴らしいの一言。この時間差の演出、いいですねぇ。(今期はエヴァーガーデンといい、手紙は遅れて届く。)

南極大陸の厳しさも大ボス感(緊張感)ある。

観測気球の場面からの空つなぎ(A地点から気球を眺める/視線の先の気球を写す/気球を眺めているB地点にカメラが降りる)が示唆しているだろうが、次週最終回では、きっと親子でおなじ空を、上記の時間差の主題をはらみつつ、見ることになるんだろう。

恋は雨上がりのように/ゆるキャン

恋は雨上がりのように、第10話、良いやん。

この作品、大切なシーンの前に(店長との距離が近づいたり離れたりする場面)、仰角/俯瞰のショットが来るよね。(雨上がりというのは、地上から空を見上げる認知の志向性がある言葉でしょう。)

今週だと、古本市の待ち合わせで、太陽の光に手をかざしているカットとか。

印象的なのは、第2話で松葉杖ついて外に出る場面でやはり手をかざすカットがあったり。

仰角・俯瞰のショットを追って、それを恋愛の進展に絡めるなど、蓮實系のテーマ批評が冴える作品だと思う。

ゆるキャンをはじめて見たんだけれど、劇伴が良かった。

キャラクターの線より、薪の線のほうが圧倒的に書き込んであって、ああ、そういうことかな、と思った。マニュアルもの、と理解してよろしいか。きのう何食べた? とかしか類型を思い出せないが。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン第10話

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第10話「愛する人は ずっと見守っている」

脚本・吉田玲子、絵コンテおよび演出・小川太一、作画監督・丸木宣明。

キャスト アン・マグノリア 諸星すみれ、クラーラ・マグノリア 川澄綾子

 「いい最終回だった」とときに冷笑的に言われるほどの第9話を経て、まだ書くことがあるのかと思っていたが、Cパートが「まだまだ書くべきことがある」と教えてくれる。

一週完結のまとまり具合だけであれば、姫様回がすでにあったわけだが、第10話は、少佐をとおして情動・感情というものを知って、それでもなお自動手記人形として職務をまっとうするとき、ヴァイオレットちゃんがどのようにその情動性を処理するのか、という点を書き足した。彼女も視聴者も、いわば、二周目の自動手記人形のおつかい物語を経験するのであり、すると、一巡目(たとえば姫様、あるいは戯曲の手伝い)には書き得なかった情動性が前景化する――いや、むしろ、抑圧されていたのだから、いわば「後景」に無理やり追いやられていたことを知る。 

茅原実里の歌い方の評判が悪いようだが(わたし個人は、先述のように、ヴァイオレットちゃんを主人公にする物語にふさわしい歌唱スタイルだと思っている)、そのエンディング曲までが2コーラス目に入って(普段の90秒の範囲の外側)、人形めいた歌唱からやや離陸したようにさえ聞こえてくる。

原作小説の広告で女の子がいやだいやだとヴァイオレットを叩いていたカットがあったが(あれは屋内のショットだと記憶しているが)、あの場面のアニメ版を見て、ああ、あのCMで見たお話だったのか……と知るが、アンの腕も情動も受け止めるヴァイオレットちゃんの姿勢にその「後景化」を見てとってもいいと思う。あの場面は、ヴァイオレットちゃんなりの抑圧や我慢の場面であった(この場面での諸星すみれの芝居も良かった)。この場面で、シリーズを通しての演出方針である「情動性は義手に宿る」の原則の通り、左手の揺れが書かれている点にも着目していいはず。(このとき、ヴァイオレットが「どうにもならないもの」の例として自らの義手を挙げていることにも。)

また、小川太一の演出は、時の経過を上手に見せていた。

第一に、Bパート冒頭、7日の滞在であっという間にアンがヴァイオレットに懐いていく場面――「ヴァイオレット」連呼の――での短いカット割り、余白を詰めた音声の挿入。その直後にタイムラプス(この技法の活用がうまいひとが京アニで演出がうまいひとだという判断でいいと思う……)が入るが、ここでは一日いちにちの経過のみが書かれる。(よりスケールの大きなタイムラプスは母を失う場面で用いられる。)

第二に、Bパート末尾、背景を固定して、キャラ絵のみフェイドアウトさせる演出がまた素晴らしい――お屋敷に住み続けるアンにとっては、一つひとつの部屋も庭も変わらないのに、そうした日常の空間から、母親の姿のみ、記憶となって遠のいて消えてしまう。葬儀のカットでのフェイドアウトを経て、母の手紙の朗読が始まるが――もう川澄さんの声だけで泣ける――1通いっつうの手紙が新しいパラグラフを導くかのように、例の背中のショットにおいて、今度は逆に、フェイドアウト/フェイドインでキャラ絵が成長していく。