『ボールルームへようこそ』第24話

ボールルームへようこそ』第24話(最終話)について。結果発表のあとの千夏の表情がウキウキすぎて可愛かった(笑)(全体の話はまた今度書きます。)

例外的に異様なまでに長いアバンタイトル、千夏がジュニア時代のリーダー上がりであるというこれまでの不和や葛藤の原因が、練習不足のヴェニーズワルツ(言ってみれば、交互に回転を与えあう種目である)の素晴らしい踊りに行き着くというの、熱かった。仙石さんの言葉がオーバーラップしつつ、得体の知らない他者をとおして自分が見えるということに思い至り(たとえば自分の喜怒哀楽の揺れのポイントを知ったり、自分を好きになったり嫌いになったり)、あっ、これはあの場面のあのショットのことじゃん、と気がついたところで、オープニングに入るというの、熱い。あのギターフレーズが入るところでのお互いの瞳に映り込み合うショットの意味はこれだったのね。感心する。

「見られること」の主題に対する多々良くんと釘宮さんの対比については簡単に触れているが(ボールルーム - rhrhr’s)、Aパート末尾、クイックステップの終わりにて(踊り終わったときの多々良の表情の素晴らしさ、凛々しさ)、原作がまだすべてを描ききれていない点――多々良くんの両親の離婚――まで踏み込んだ勇気は賞賛したい。自分を「見て」くれずに立ち去っていく母親の背中は、原作8巻(合宿)でテレビ版から落としたコマから引かれているが、その温存というか省略が「(おれのダンスを)見ろ」という第1話からの主題に絡めて回収されるなんて、まじで泣いた。

(「扉」の回で幼いころの多々良が出てくるが、あの母に置いていかれるショット/コマと背丈や服装を一致させたほうが良かったのでは。多々良にとって、「自分が見られること/見られないこと」の主題はあの時点で止まってしまっているんでしょ。)

Bパートからの展開は、まあ、こういうものだろうと思う。すでに触れたが、あの千夏の表情。土日に賑やかな場所を歩いて、ああいういい表情をしている女の子が彼と歩いているところを見ると、ああ好きなんだねと思っちゃったりしますが……そういう連想をしたくなるくらいキラキラだった笑

原作については、単行本になっていないところまで含めて読んだが、仙石さんの電話については、いいところを端折ってしまったように思う(相手をとおして自分を発見するという話で、上記離婚のときの自分を見つける、というあの美しいコマが落ちてしまっている)。新学期の自己紹介のところで多々良の「好きなことはダンスです」を馬鹿にしてしまったのはダンスを断ち切るためだったと千夏が謝り、「自分がそこそこ」に過ぎないのではという千夏の言葉を否定してやって、「へへ」と千夏を半泣きにさせてしまうところ、音声つきで見たかった。とくに、俺たちは、第15話で「千夏に女子力が足りない」言うてフォローのポイズ/姿勢の練習をしているときの、あの「女子力」なんてどこかに飛んでいってしまっている笑い方の芝居を聞いてるので(あれ、なんで笑っちゃうんだろう、くすぐったいのか笑)。

これと関連して、声優の話では、赤崎千夏(千夏役の千夏さん)のこの手の芝居を聞いたのははじめてだったが、良かったです。第21話、筋膜リリースでからだが動きすぎる多々良とのパートナーシップを模索するさいの一連の台詞、良かったです。(赤崎さんというと、俺修羅のラジオ、本当に楽しかった。留学時には本当によく聞いた。おかげで生き延びた。)

(脱線がつづくが、「わたしたちのかたちを探そう」というショットでの画面こちらに振り向く振り付けの千夏の作画、可愛すぎでしょう。原作でどのコマだったか探してしまった笑 けっこう小さいコマなのでした……。21話は劇場版レベルの作画スタッフだったが、脱線ついでいえば、この週に採用されていた、千夏の背中を水彩ふうに塗る技法の役割、ちょっと考えてみたいです。原作のトーンの貼り付けの解釈として面白い。背中の筋肉が壁になっているかのような質感。)

Cパートの多々良くん、あの足元のショットは、第1話の仙石さんのステップ(お手本を見せて立ち去るときのショット)の作画の使い回しだろう。この節約と美学(多々良くんの競技者としての成長の証)の両立。この作品らしい。素晴らしい。

やや散漫な記述になってしまいましたが、スタッフのみなさん、お疲れ様でした。この半年、楽しかったです。